2015年2月6日、アシア・ジェバールが亡くなった。邦訳に『愛、ファンタジア』(石川清子訳、みすず書房)、『墓のない女』(持田明子、藤原書店)がある。以下に、webに出たEl Watan紙の記事を紹介する。
・El Watan紙の記事より。
アシア・ジェバールは、1936年6月30日シェルシェルCherchell生れの世界的作家である。作品として小説、詩、評論があり、23カ国語に翻訳されている。演劇作品も書き、映画制作にも手を染めた。2005年6月16日にアカデミー・フランセーズ会員に選出された。アシア・ジェバールは、身体的には生地から遠いところにいたが、最期までアルジェリアを気づかい、強い愛着を抱いていた。なによりも彼女の作品が、その雄弁な証となっている。
Nadjia Bouzeghrane,
El Watan, le 08.02.15. 10h00.
アシア・ジェバールの訃報が反響を呼んでいる。彼女の作品が20以上の言語に翻訳されていることから驚くにあたらないとしても、アルジェリアのメディアがこぞって報じたことは時代の推移を感じさせる。関連記事や匿名の読者から寄せられたコメントを読むと、大作家の死去を悼むというよりは、道半ばにして倒れた人への哀惜、彼女の困難な位置への言及が目立つ。
図式的な反植民地主義やポストコロニアリズムの視点からは、彼女の文学は捕えにくいかもしれない。だが、反植民地主義闘争以後の現代社会と人間のあり方に正面から取り組んだ文学がここにある。アカデミー・フランセーズ会員という制度的には栄誉ある地位に就いたとはいえ、アルジェリアを去らなければならなかった知識人の代表的な一人だった。
CEJLFの会報4号には、Yahia Belaskri のインタヴューが掲載されているが、Belaskriの経歴も参考になるだろう。
マルティニック島在住の亡命アルジェリア人から、反響をまとめたファイルが送られてきたので、その一部を以下に掲載する。
・El Watan紙の記事より。
アシア・ジェバールはもういない。数年前より、彼女の病気のことが文学やジャーナリズムの関係者の間で囁かれていた。それを公表する人は誰もいなかった。彼女への配慮からだが、それはまた、返す言葉がなかったからでもある。あれだけ情熱に燃え、記憶に係わってきた作家がアルツハイマー病に捕えられたことは、ギリシャ悲劇の次元に達している。〔...〕
2005年のアカデミー・フランセーズ会員選出のとき、元文化大臣クハリーダ・トゥミKhalida Toumiの声明と2,3の新聞記事の他には、公的な追悼の言葉がなかったことを
指摘する人たちがいた。まるで、アルジェリアの女性作家が旧宗主国の制度的機関に取り込まれたことが、なんらかの恥辱であるかのようだった。作家のワシニ・アルアラジWaciny Laredjiは次のように発言していた。
「国家的誇りにすべきことだ。公的な機関、まずは国家元首が反応すべきだろう。まるで平凡なことであるかのようにニュースを取り扱う国営テレビに私は唖然とした」(
Jeune Afrique, 27 juin 2005)
Ameziane Farhani,
El Watan, le 08.02.15. 10h00.
・web上にアップされた匿名のコメント
私たちの国に、嘘でもいいから文化、民主主義、人間性のようなものがあるならば、博覧強記の人アシア・ジェバールは、自国において、哲学者として、指導的な思想家として作家的才能を活かし、そしてまた埋葬されたことだろう。如何せん、今日、身の安全のために国を離れなければならなかったのは彼女だけではない。不幸なことに、彼女のように数多くの人たちが地平線の向こうへと出発し、誰の目にも明らかな、この国の統治者たちの理不尽から身を守らなければならなかった。
オランド大統領は、アカデミー・フランセーズ会員である偉大な女性を追悼するにあたって、フランス文化の大きな損失だと述べていた。私としては、むしろ彼女の国、アルジェリア全体にとっての文化的損失だと言いたい。たとえ、彼女がシュヌアChenouaの人、つまり、北アフリカ人がすべてそうであるようにベルベル人だとしてもである。またもや、頭脳が一つ、私たちのもとを去った。
・El Watan紙に掲載された記事より。
映画において、アシア・ジェバールはアルジェリアの女性に言葉を与えたかった。「私は、観光映画を作りたかったわけではありません。もっと知りたいと言う外国人のためでもありません。〔...〕 映像それ自体が、反抗の潜在的な力となりうるのです。内側からのイメージを見せたかったわけではありません。それなら、私には目新しくありません。私は外側のイメージを見せたかったのです。」
Nadjia Bouzeghrane,
El Watan, le 08.02.15. 10h00.
・アカデミー・フランセーズ会員就任時のアシア・ジェバールの演説より
フランス帝国時代の北アフリカは、イギリス、ポルトガル、ベルギーの植民地だったアフリカの他地域と同様に、一世紀半にわたって、その自然の富を奪われ、社会的基盤を破壊されました。そして、アルジェリアの場合、そのアイデンティに関わる二つの言語、長い歴史をもつベルベル語とアラブ語が教育から排除されていました。アラビア語については、その当時、私にとってですが、コーランの言葉を通してしか、その詩的美質に触れることができませんでした。
ご列席の皆さま、私たちの祖先が、少なくても4世代の間、日々身をもって生きた植民地体制は、巨大な傷口でした。最近、軽々しくも、そしてまた選挙の浅はかな胸算用によってその記憶の傷口を開いた人たちがいました。すでに1950年に『植民地主義論』によって、偉大な詩人エメ・セゼールは力強い言葉の息吹と共に示していたのです。アフリカやアジアでの植民地戦争がいかにヨーロッパを、彼の言葉によれば「非文明化」し、「野蛮化」したかを。
・ブーテフリカ大統領の追悼の言葉
アブデルアズィーズ・ブーテフリカ大統領が、先週金曜日亡くなったアルジェリアの小説家アシア・ジェバールの家族に弔意の親書を送った。その中で、大統領は、故人が優雅に且つ雄弁にアルジェリアのイメージを体現したと述べた。
「私は、深い悲しみと共に、世界的に著名なアルジェリアの小説家アシア・ジェバール、本名ファーティマ・ゾフラ・イマライエンヌの逝去を知りました。後に残された彼女の長い経歴は、成功に隈取られたもので、彼女はペンによって芸術と文学に高貴さを与え、その頂点を極めました。
「この才能に溢れた作家は、息が長く、豊穣な想像力を持ち、果敢で熱情的でしたが、グラヤGourayaで子供時代を送り、コーラン学舎、そして村のコレージュで学んでいます。彼女は見事に節目節目を乗り越え、バカロレアを取得するまでに至りました。粘り強く、旺盛な知識欲を持った彼女はその向上心を捨てることなく。その断固とした意志を武器として、立ちふさがる障害を進路から取り除くことによって、世界に、自由で、強く、尊敬に値するアルジェリア女性を示したのです」と、親書に書かれている。
ALGERIE PRESSE SERVICE, le lundi, 09 fevrier 2015 09:37 (記事の著者は未詳)